9/11 --- あれから 3年

投稿: 2004年9月19日

3年前の 9月 11日以来、何かを書いておかなければ、何らかの形で自分の気持ちを書き残しておかなければという気持ちを常に持っている。これまでに何度か書きかけて途中でやめた文章もある。それらについては、おいおい手を入れて掲載しようと思うが、まずは 2004年 9月の自分の気持ちを記してみる。

2004年、今年もまた 9月がやってきた。悲惨なテロ事件から 3年。 3年前のその日は、よく晴れた暑い火曜日をテキサス、オースティンで過ごした。ことしのその日、 9月11日は、それほど暑くない土曜日を東京で過ごした。今でもあのとき、あの頃のことを思い出すと涙が出る。アメリカを愛してやまない人、愛してやまない人を失った人々には比べ物にならないが、僕の心にもそれなりの傷を残しているのだ。

自分の将来に不安を感じないような生活なんてしたことはないが、3年前のあの日以降、自分のことだけでなく、自分の周りや世界全体の先行きに対する漠然とした不安を感じるようになった。多くの人が希望を失ってしまうのではないか、人々が互いに憎み会うことが増えるのではないか、そんなことを考え、そして自分自身がその「人々」の中の一人になってしまうのではないかとすら感じた。

その時の僕は、 1年後の自分の生活を想像できなかった。きっとそれまで同様、それが日本であるかアメリカであるか、はたまた別の国であるかは分からないが、ともかくときどき孤独感を覚えながら生活しているのだろうとくらいにしか思っていなかった。そんな風に考えるのは、何もその時始まったことではないのだが、 9.11以降、強くなる不安感や無力感に押しつぶされそうな気持ちになることも少なくなかった。毎日テレビで報じられるテロに関連する事件は、ニューヨークに近くないオースティンですら、社会全体を重苦しい雰囲気にしていたように感じる。そして、ラジオをつければ God Bless Americaや America the Beautifulなどといった愛国心をあおる歌が必ず耳に入る。大リーグの試合でも、 seventh inning stretch で、 Take Me Out to the Ball Game ではなく、これらの愛国ソングが歌われていた。僕が好きだったアメリカの姿は、もうそこにはなかった。

比較的高い教育を受けたであろう、仲の良い有人たちの多くも変わってしまった。タリバン政権は女性を差別している、だからアフガン空爆は当然よ、などと主張するような人もいた。女性差別を肯定する気などさらさらないが、それとこれとは別問題である。 9.11とそれとは無関係であることは、考えなくても分かることだ。しかし、彼女にそんなことを言っても無駄だった。僕が好きだったアメリカ人の姿は変わろうとしているように見えた。

しかし、アメリカが全面的にそんな風になってしまったわけでもなかった。毎週金曜の午後、インターンとして働いていた学校の授業が終わるとだいたい近くのパブで飲んでいた。そこには普段話すことの少ない先生たちやその友人が集まることが多い。その中の一人に別の学校に勤務する先生がいる。彼女とはめったに話すことがなかった。しかし、その金曜はたまたま常連の先生たちが誰も来ておらず、なぜか彼女と二人で飲むことになった。いろいろな話をした。そんなに彼女と話したのは初めてだった。普段の生活のどうでもいいこと、特殊教育のこと、そして戦争のこと。酒のせいもあってか僕は普段よりは饒舌だっただろうか。相手がアメリカ人であることは分かっていたが、言いたいことを全部言ってやった。というよりは、二人で話していたら、二人そろって似たようなことを言っていた。「空爆による殺戮を正当化するものなんてなにもない」そんなことを言いながら、ギネスの生をもう1パインと飲んだ。その1パインとを飲み干してからパブを出た。そのとき、どちらからともなく手を差し伸べ、軽く体を抱き合った。真の友人を見つけたような感覚に満たされていた。もっとも、彼女とあんなにいろいろと話し込んだのはそれが最初で最後だったが。彼女の他にも、僕の仕事上のパートナーだった人などもやはり 9.11直後からずっと変わらない、僕には理解できる主張を持っていたようである。これらの人々と話すと、若干の安心感を得られるような気がしたものだ。

9.11からどのくらいの後かは覚えていないが、 FBIがテロ防止のためにアラブ系の人々の事情聴取をする方針を打ち出したことがある。これは私の友人から聞いた話だが、この方針が明らかになり、各州の警察に対して協力要請があったとき、オレゴンかどこかの州警察の幹部が、この方針は米国憲法に違反するものなので協力しない旨を、記者会見を開いて明らかにしたそうである。この話を聞いて、なんとも言えないほっとした気持ちになったのをはっきりと覚えている。アメリカという国は、まだ完全に腐ってはいなかった、そんな気にさせられたのだろう。

その後僕は、翌年 3月に日本に帰国して、今日まで東京で暮らしている。今年の 9月 11日は、アジアの5カ国から来た視覚障害者を対象とした研修を、イギリス人とともに担当していた。この日に、そんな国際交流のど真ん中にいられたことを心より幸せに感じる。そして、 3年前には考えもしなかったことだが、今この文章を書いている僕の横には、マレーシア人の妻が気持ちよさそうに寝息を立てている。いろいろな不安感はまだ拭えないのだが、自分が「憎みあったり希望を持てない人々」の一人になってしまうのではないかという不安、そして年齢を重ねるにつれて感じることが多くなってきていた孤独感を感じる必要はなさそうだ。そんな幸せが僕だけのものでなく、多くの人々に降りかかっていって欲しいと心から願わずにはいられない、 2004年 9月である。