昔をバネに
最近、懐古的な気持ちになることが少なくない。経験的に、これはきわめて良くないサインである。
今の自分は、過去の自分の上に成り立っている。これは紛れもない事実だ。だから過去の自分や、そのことを思い返すことを否定する気などさらさらない。しかしだ、懐古的な心持ちになりやすい時というのは、現在の自分に満足していなかったり、何か納得できないことを抱えていたりするときによくあることだ、ということを経験的に知っている。だから、ちょっと自分自身の心の中の動きに警戒感を持たなければならない時なのだと思う。
僕が思い出す過去、それはだいたい自分が必死だった頃のことだ。人生の中で自分が必死だったと感じられる時期は何度かあるが、やっぱり一番必死だったのは、高校生の頃にアメリカに留学した時だろう。あのコミュニケーションがとれない環境、インターネットが庶民の所へまだ到達していなかった当時の日本の友達とのコミュニケーションがこの上なく難しかったこと、そんな頃だ。あの頃が素直に懐かしい。あの頃に戻りたいかと聞かれると、ちょっと考えてしまうが、でも年齢的にもあの頃に戻れるなら、別の道を歩く可能性を探すことも含めて、やってみたいことはいろいろとある。
考えてもみれば、あの頃が今より良かったか、というと決してそんなことはないように感じる。唯一の違いは、必死さがあったことだけかもしれないのだ。あの頃は、今に比べると、昔を懐かしむには若すぎたし、そしてそんなことをしている暇がないくらい必死だった。だから充実していたように感じられるのだろう。
今必死でないのか?いや、必死でこれからの道を模索しているつもりだ。今が充実していないのか? いや、悪くない友達、決して無駄ではなかったこれまでの経験、そして何より大切な家族を得た今、何が充実していないと言えるだろうか。しかし、こうしてこの文章を書いている今、そんな僕を支え続けてくれている人たちに、胸を張れるような人生を歩んでいるのかと考えると、自然と涙があふれてきてしまう。
僕は本当は必死なのではないと思う。必死になれるような短期的、そして中長期的なゴールが明確ではないのだろう。だとすれば、「これからの道の模索」を、今以上に必死にすることが、まず最初のステップなのではないか? 昔を懐かしんだり、こんな駄文を書いている暇があったら、今できることを着実に一つずつやっていく方がいいのではないか? それができれば苦労はしない、が、それをする努力をもう少しくらい多めにすべきなのかもしれない。
「あの頃」に戻ることはできないが、今からでも選べる「別の道」だってあるかもしれない。「やってみたいことがいろいろとある」なら、そういうことに取り組んでみるのだって、決して今からでも遅くはないはずだ。懐古ついでに、何がやってみたいのか、じっくりと考えて、この心の穏やかさを失った時間すら無駄にしないで先へ進んでいきたいものである。僕のことを知っているみなさんには、もうしばらくの間、大きな心で見守っていていただきたい、そんな気持ちだ。
PS: 懐古ついでに、昔からよく話には聞いていた Classmates.com なんぞに行ってみた。しかし、僕が連絡を取りたい親友は発見できなかった。これを読んでいて、僕のことを知っていて、しばらく連絡がとれていない人がいたら、ぜひ連絡をいただきたい。