死刑について考える

投稿: 2006年1月18日

1988年から1989年にかけて発生した、連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤被告の死刑が確定したそうである。事件から 17年以上、被害者のご遺族にとっては、不必要に長くつらい時間だったことだろう。それにしても 17年以上というのは、あまりに長すぎるのではないだろうか。

この事件が発生した頃、高校生だった僕はアメリカに留学していた。今とは異なり、あちらで日本のニュースに触れる機会はまずなかった。また、日本の友人とのコミュニケーションも、そのほとんどが手紙によるものだった。そんな状況におかれていたので、僕がこの事件について知ったのも、友人の一人から届いた手紙からで、その残忍さなども、あまり正確には伝わってこなかった。それでも、当時はまだまだ日本はアメリカに比べてはるかに安全だと、誰もが信じている時代だったので、この事件の報には少なからずショックを受けたものだった。

その頃の僕は、死刑という刑罰について、なんとなく違和感を感じていた。たとえば、残忍な殺人事件を考えた場合、まず、犯人が人を殺したことが良くないことは言うまでもないことである。しかし、だからと言って、裁判の結果として、別の誰かがその犯人を殺すという行為が正当化されるのはおかしいのではないか。そんな風に考えていた。いくら犯人でも人であることには変わらず、その犯人の命も他の人の命と同じ重さを持っているのではないか、そんな風に考えていた。今でもこの考え方が全く間違いだとは思わないが、どちらかと言うと間違っているのではないかという考えが強い。

上のような考え方がもしかして間違いではないかと感じたのは、この連続幼女誘拐殺人事件について知ってからだ。このような残忍な人間は、その死を持ってしてもその罪を償えないのではないかと感じたし、今もそう感じる。こういった人間を死刑にできなくなるのだと考える、単純に死刑廃止論者にはなれない。

死刑について僕が最も大きな問題だと感じるのは、冤罪だった時に取り返しがつかないことになってしまうということだ。裁判にしてもその前の捜査にしても、人がやることだから間違いを完全に排除することはできないと考えるべきだろう。だとすると、そこには冤罪の可能性が存在するわけで、少なくとも十分に時間をかけることなく出される死刑判決はあってはならないのかもしれない。ただ、この事件に関しては、どうやら裁判における争点は、被告の精神状態、すなわち死刑が重すぎるかどうかということだったようなので、そうだとするとやはり不必要に長すぎたという印象は否めない。

もう一つ考えたいこととして、死刑にするよりは生きてその罪の重さを強く感じることで償わせるという方法もあるということだ。本当に罪の意識がある犯人なら、この方法も悪くはないだろう。ただ、仮出所がない終身刑、というのが存在しない日本においては、その効果は疑わしいような気がしてしまう。さらに言えば、そういった更生する可能性が低い人々を、なぜ税金を使って生きながらえさせないといけないのかとも感じることもある。同じことは、罪を犯していたことに疑いの余地がほとんどないのに、裁判を引き延ばして死刑判決を先延ばしにしているのではないかと感じられるような事件の被告にも言えることである。

犯罪者にも人権がある。全くその通りだ。しかし、自分が犯した罪によって、自分の人権が制限されてしまうというのは、別におかしなことではないだろう。本人も罪を認めていて、周りから見てもその罪が明らかである場合、その犯人の人権が制限されることには大きな問題はなさそうである。 (もちろん、罪の重さと人権の制限される度合いなどはしっかり検討されるべきだが。) 問題は、誰から見ても明らかなのに、真実が異なる場合があるということだ。主観を排除するためには、客観的な基準を適用しなければならないわけだが、今のところ判決をよりどころにするしかなさそうだ。だとすると、やはり冤罪の問題が残る。

そんなわけで、僕は死刑廃止論者ではない。一時期そうなりそうな時期もあったが違う。かと言って、積極的な死刑賛成論者でもない。死刑制度の存続には賛成し、その制度の運用について深く考えるべきである、というのが僕の考えなのだろう。なかなか答えの出せない問題である。

しかし、いずれにしても宮崎被告の死刑が確定したことは良かったと感じ、またそれにかかった時間は長すぎたのではないかと感じる。あんな残忍な犯罪の被害に遭わなければ、今は僕が普段接している学生たちと同じくらいの年齢になっていたであろう子供たちの冥福を、改めてお祈りしたい。