トリノオリンピック開幕

投稿: 2006年2月12日

というわけで、オリンピックが始まった。興味がある種目は、夏のオリンピックに比べるとはるかに少ないのだが、テレビなどで放送していると、ついついぼけーっと眺めてしまう。

ヨーロッパでオリンピックやら世界陸上やらをやる時というのは、言うまでもないが夕方以降に放送が始まり、朝方まで続く。したがって、いつもののニュース番組とかくだらない (と思われる) 深夜の番組とかが短くなったりなくなったりしてくれる。これは実にいい。帰ってきてビールでも飲みながらテレビを見ても、暗い気持ちになったりいらいらしたりすることが普段より圧倒的に少なくなる。でも、「少なくなる」だけで「なくなる」わけではない。

というのは、民法の場合、「キャスター」なる存在の芸能人がいて、飲み屋でテレビを見ている親爺のごとく、情報として無価値な発言を繰り返し、時間をつなぐ、ということが頻繁に行われるからである。ちなみに、こういうイベントで「キャスター」として使われる芸能人、世間では人気があるのかもしれないが、僕は好きだった試しがない。で、そもそもキャスターというのは、番組を計画し、その計画を遂行する上で必要な流れを作り、必要があればいろいろな人に役割を与え……という役割 (castする) を持つ人であると思う。ところが、僕が過去に見たことのある飲み屋の親爺キャスターたちは、そんな役割を果たしているとはとても思えない。彼らが言うことと言えば、どうでもいい個人的感想がほとんどで、僕でも言えそうなことばかりだ。「残念でしたねぇ」とか、「がんばって欲しいですねえ」とか、「この選手は美人ですねぇ」とか…。時には放送局が設定したであろう事前のインタビューの内容を紹介することもあるが、そんなの、設定さえしてくれれば誰だってできるのだ。スポーツ・ジャーナリストとか、今でも影響力を持っているだろう元選手で今は解説者、とかの方がかなり価値のある情報を提供してくれるであろうことは容易に想像できる。もっとも、最近はそういう人たちは現地で解説をしたりレポートをしたりしているので、それはそれででいいと思う。で、話をキャスターに戻すが、結局番組のキャストをしている本当のキャスターは、裏でがんばっている人々なのであろうことは誰にでも分かる。しかし、やはり親爺芸能人たちはキャスターとして出演している。ともかく、壊れてしまった僕のスーツケースの底についている輪っぱほどにも役に立たないこのキャスターたちが、僕にとってはいらいらの原因になるのだ。

いらいらするなら見ない、これが僕の基本的な考え方だ。しかし、キャスターは見たくなくても、競技そのものは見たい。ということで、普段とは異なり、常にリモコンを手の届く所におき、キャスターが出てきたら即座に他のチャンネルに帰られるようにしてテレビを見ないといけなくなる。これはのんびり酒を飲みながらテレビを見ている場合には、結構面倒くさい。冬のオリンピックの場合、興味がある種目が多くないので、素直に寝てしまう、というのが一番いいのだが、夏のオリンピックや世界陸上ではそうはいかないので困ったものである。

話は違うが、今回のオリンピック、なんだか知らないうちにその季節がやってきたという印象だ。前回のソルトレイク・シティーでのオリンピックから、もう 4年もたってしまったということに今更気づき、改めて驚いている。

前回の冬季オリンピックの時、僕はアメリカにいた。しかし、アメリカでは日本ほどオリンピックが関心を集めていなかったような印象だった。おそらく一つの原因は、放映権を持っていた NBC (だったと思う)が、僕が知る限り、基本的に録画のダイジェスト版を流すのみで、生中継というのがなかったことにあるのだと思う。ただ、鶏か卵かという話になるが、関心が低いからそういう番組編成になったということもあるのかもしれない。また、日本では多くのチャンネルでオリンピック関係の番組をやっているのに対して、アメリカでは放映権を持っている系列局だけでしか放送されていないのも、あまり盛り上がっていないような印象を受ける一因となっていただろう。でもとりあえず、役立たずキャスターがいなかったことだけは、あちらのオリンピック放送の評価できる点である。

それにしても、あれからもう 4年がたつのである。オリンピックの開幕で、今とは全く違う生活をしていたあの頃のことを、記憶が薄れないうちにそろそろ書いておかないといけないような気分にさせられた。