清水 潔: 「桶川ストーカー殺人事件—遺言」
僕が定期的に読んでいるブログの中に、 為替を中心とした経済関連のことを取り扱う記者が書いているブログがある。 1年近く前の話になってしまうが、 このブログの記事 で、表題の本が紹介されていた。記者であるブログのオーナーが、いわば同業者が書いたこの本を良書であると書いているのを読んで興味を引かれていたのだが、最近、読む機会を得た。
僕があれこれ書くよりも、実際に読んでいただくのが良いと思うので内容については書かないが、引き込まれるように一気に読んでしまった。一言では言えない気持ちを残す本だった。怒り、悲しみ、疑念……。
考えたことのいくつかをなるべく簡潔に書いてみよう。
情報の真偽の判断の難しさ
僕たちが普段手に入れられる情報というのは、ほとんどが当事者以外の第三者から得るものである。マスメディアがこぞって報じているから信頼性が高いだろうとか、一部の週刊誌だけが報じているからでたらめだろうとか、ブログの情報だから怪しいとか、そういうことを無意識に考えながら消化している。そのような中で、誰が決めたのかもよく分からない一流新聞とか三流週刊誌とか、そういうブランドに対する先入観も、情報に関する信頼性を判断するのに大きな影響を与えている要因の一つであることは事実だろう。少なくとも僕自身に関して言えば、そういう先入観を持っていること、そしてそれに基づいた判断を少なからずしてきたことは否定できない。しかし、この本を読むと、これまで僕が判断材料としてきた物の多くが、場合によっては全く無意味な基準だったかもしれず、またその結果として、僕が真実だとして受け取った情報が、実際には真実ではなかった、などというケースがあっても全く不思議でないのだと感じる。特に、警察発表とか、捜査関係者の話として伝えられてくる情報だからと言って、必ずしも他の情報よりも信頼性が高いわけではないということは、今後情報の受け手として十分に理解しておくべきことだと感じた。
情報のフィルタリング
上述の点とも関連するが、警察が出す情報だからと言って、必ずしも信頼性やその情報としての価値が高いわけではないという点は、しっかりと認識しておくべきだろう。最近、犯罪被害者に関する情報を警察が報道機関に対して発表するかどうかという点が議論になっているようだが、この本を読んで警察に対する僕の中での信頼が地に落ちた今、警察が情報のフィルタリングをすることに対しては、嫌悪感すら感じるようになってしまった。実はこれを読むまでは、マスメディアに対して被害者の情報を出したってろくなことにはならないのではないか? という疑問が大きかった。今でもそう考えないわけではないが、警察による情報のフィルタリングによって、真実がうやむやにされるようなことがあってはならないと強く感じるようになったのだ。
警察の信頼性
警察というのは、僕たちが助けを求めることのできる相手であるべきで、戦いの相手になってはならないはずだ。そうでなければ、僕たちの税金を使って維持する価値などないのではないだろうか。と、そんなことを書いて思い出したことがある。 元国家公安委員長の白川勝彦氏が職務質問を受けた時の顛末 である。僕は専門家ではないからよく分からないが、それでも、警察というのは、(善良な) 国民の絶対的な信頼の上で権力を行使する組織でなければならないと思う。しかし、現状がそうでないことだけは、この本からも、上記の Webページからも分かる。僕たちは、政府が国民の生活や安全を守るために何をして行くのか、こういう事実をふまえた上で、厳しい視線を送り続ける必要があるだろう。そして、それが僕たちが僕たちのためにできる最低限の努力なのだろう。
他にも、簡潔にまとめることができないようなことをあれこれと考えた。一人でも多くの人がこの本に書かれている事実を知ることで、もしかすると何かが少しだけかもしれないけれど、良い方向へ動くことにつながるのではないか、と考えたので、ここに僕の感想を書いてみることにした。