手段と目的

投稿: 2006年6月3日

度々紹介しているブログ、為替王に、「カーストという身分制度のあるインドから見た日本の格差社会」という、なかなか興味深い記事があった。為替王氏とインド人の経済専門家の間のやり取りが紹介されているのだが、このインド人経済専門家が語っているカースト制に関する考え、そして日本のいわゆる「格差社会」についての考えを読んで、僕もあれこれと考えさせられた。

特に印象に残ったのは、日本の格差社会に関連する以下の言葉だ:

下流に落ちて、それに慣れると上昇意欲がなくなる。決してそこから上がろうとはしない。彼らが頑張ることと言えば、政府からの援助を求めることだ。下流では被害者意識が充満している。彼らは被害者として当然の“もらう権利”を主張することに一生懸命になる。驚くべきことに、下流グループから抜け出ることに一生懸命になりはしないのだ。下流層にい続けることを望み、安心してしまう。下流層がグループ化、固定化してしまうことを懸念する。

これは鋭い指摘だと感じる。下流層から抜け出すという目標を持った人々が、そのために必要な手段を得ることが困難な場合、その手段を手に入れるための手助けが必要になる。でも、その手段を手に入れることが目標になってしまい、手に入れた手段を適切に使わない/使えないというのでは困る、ということだが、実はこれはあらゆる場面に適用できることなのではないかと思うのだ。

たとえば、外国語を学ぶということ。「英語を話せるようになりたい」と思うのは、それはそれで価値ある目標だ。でも、「話せるようになって、それでどうしたいのか」ということがなければいけないと思うのだ。僕は常々「言葉はツールだ」と思っている。どんなにかっこよく英語が話せても、どんなに美しく正しい日本語を話せても、その言葉を使って語る価値のある知識を持っていたり、人に伝えたい心がなければ意味がないと思うのだ。だから、僕は常に英語力は伸ばしたいと思っているし、正しい日本語を話すように努力している。でも、それよりももっと重要なことは、他人が僕と話したいと考えてくれるような人間になるための努力をすることだと考えている。正直なところ、どうすればそうなるのかはよく分からない部分も多いのだが、とりあえずは興味のあることを追求し続け、そしていろいろなことを見聞きして視野を広げることが重要なのかもしれないと感じている。

他の例としては、大学などでやっている研究。本来、何らかの問題を解決して、社会に役立つことが目標だと思うのだが、気づいてみると、解決すべき問題のいくつかに取り組む上で必要なツールを作ることが目標になってしまっていることがあるような気がする。ツールを作ることはそれはそれで重要なのだが、その先へとつなげようとする意識がなければ、その意義も半減してしまうのではないだろうか。

さらに別の例。よく投資に関して、「具体的な目標を持って投資をすべし」というアドバイスを見かける。これも同じことだろう。利益を上げて、その金で何をしたいかということが意識できないと、ただ儲けること、そしてもっとひどい場合は単に投資行動をすることが目的になってしまいかねないということだと思う。

僕は、権利運動というものに対して、どうも興味を持てないことが多い。障害者の権利運動などというのは、言うまでもなく自分の暮らしにも影響のあることをしているのだから、もっと興味を持って関わっていこうとしても良さそうなものだが、どうもそういう風な気持ちにならないのである。しかし、前述の指摘で、その理由が明らかになったような気がする。つまり、権利を獲得したり、公的な支援を得たりすることは重要なのだが、そうして得た物を使って自分たちがどのように社会に貢献しようとしているのかというビジョンを、そういった権利運動からあまり感じ取れないのだと思うのだ。もちろん、僕があまり興味を持たないために、本来は示されているビジョンを、僕が知らないだけという可能性は否定できない。だから今後は、そういうビジョンが示されているかどうかを見極めるまでは、「興味のないふり」をしないことにしようと思う。

階段の1段を上る目的は、その次の 1段を上り、やがて上の階に行き、そしてそこで何かをすることだ。でも、 1段を上った後の目的を意識していなければ、たった 1段上って、そこで得意になってしまうかもしれない。僕はそんな人間にはなりたくない。そんな風に感じた。