ホームページと記者会見

投稿: 2006年9月29日

iza!に掲載されていた先日の産経スポーツのコラムが、有名人が重要な事を記者会見ではなくホームページ (HP) で発表する最近の風潮に対して疑問を呈している。「HPではいくら名文を並べ立てたところで、誠意は伝わってこない。」と結んでいるこのコラムの主張に、僕は疑問を感じる。

コラムでは、ジャイアンツの桑田真澄が今後の去就についてホームページで明らかにするので、それまで静観して欲しいというような発言をしたことを取り上げて、「「何だ、またHPか」という感じがする。」としている。確かにその直前に、退団を示唆する書き込みが問題になったばかりだから、このような印象を持つ人がいるのも納得はできる。実際、僕自身もあの退団を示唆する発言は「順序が違う」と感じたものだ。

コラムはこう続ける。「HPより堂々と会見したらどうなのか 」そして、中田英寿が引退宣言をホームページ上で公開したことにも触れ、「多分にビジネス臭が強かったとはいえ、古い世代にとっては、そんな重要なことをなぜ自分の口できちんと語ろうとしないのか、理解できなかった。」としている。おそらくこのような感想を持った人も少なからずいるのだろう。しかし、記者会見をして報道される場合と、ホームページ上で発表したことが報道される場合の情報の流れを比較してみると、僕は全くそうは思わない。

まず記者会見の場合を考えてみよう。第一に、記者会見で自分の言いたいことをどの程度の人がちゃんと表現できるのだろうか。有名人ともなれば、そういった場に慣れているのが普通だとは思うが、万が一誤解を招くような発言をしてしまった場合、即座にそのことに気づいたとしても、一度口から出てしまった言葉を訂正したり取り消したりするのは容易なことではない。そして、その発言を直接聞いているのは、そういったことをおもしろおかしく取り上げるのが大好きな人も少なくない、マスコミの人々である。避けたくなるのも無理はないと感じる。

第二に、仮に全く間違ったことを言わずに、全ての記者に真意が正しく伝わったとしても (あり得ない仮定だという気がしてならないが) 、今度はそれが正しく報道されるどうかは蓋を開けてみなければ分からない。紙面の都合や番組の放送時間の制約など、ある意味やむを得ない事情で断片的な情報が伝えられ、誤解を招く場合もあるだろうし、意図的に前後の文脈を無視して断片的な情報を伝えることで誤解を生じさせるような場合もあるだろう。その記者会見がノーカットで生放送されていた場合を除けば、そういった誤解を持った我々情報の受け手が真実を知る方法は、実質的には存在しない。

一方、ホームページにメッセージを掲載する手法はどうだろうか。そこにある言葉は、彼らがファンに対して自分の考えを伝えるために練り上げたものであることが多いのではないだろうか。そして、ファンの多くは第一報こそマスコミ報道によって得るだろうが、間に「マスコミ」というフィルタを介さずに、その情報の真偽を自分の目で確かめることができる。そこには、意図的であるかそうでないかに関わらず、断片化された情報ではなく、完全な形でのメッセージがあり、ファンは自分たちでその意図を理解するという選択肢を手にすることができる。そう考えると、前述の中田英寿の場合は、重要なことだからこそ、ホームページへのメッセージの掲載という方法をとったのではないかという気がするのだ。

もちろん、ホームページへのメッセージの掲載という方法にも問題はある。そのメッセージの全文が本人によって書かれていなければ、全く意味がないことだと思うし、その部分を確実に保証することが容易ではないというのが現状だろう。だから、メッセージの発信者である彼らは、掲載したメッセージが本物であることを示すための手立てを講ずる必要があるだろう。掲載後に記者会見をするというのは、その一つの方法かもしれない。

メッセージを発信する人たちは、そのメッセージを正しく伝えるという目的を、最も効果的に達成するメディアを選び、方法を選ぶものだ。彼らが記者会見ではなく、ホームページを選んだのも、その目的達成のためではないのだろうか。なぜ彼らが記者会見を選ばないのか、記者会見という方法を好んでいらっしゃるらしい件のコラムの筆者を含む旧来のマスコミの人たちはそろそろ考えてみられてはどうだろうか。そんな考察もなしに単に「理解できなかった」などと言っているだけでは、ファンのメッセージが自分たちを介さずにファンに伝わってしまう仕組みに対する、旧メディアのひがみのようにも聞こえてきてしまう。会見で語られたことを伝えるマスコミ報道よりも、ホームページに掲載された彼らの言葉の方がはるかに雄弁であると感じさせられた経験を持つスポーツファンが、少なくともここに一人いる。

余談: 僕はホームページを HPと略すのが嫌いである。僕が知る限り、英語圏で HPと言って某コンピュータ関連会社ではなく、 homepageのことを思い出す人は皆無だろう。そういう意味では和製英語だと言ってよさそうだ。既に我々の暮らしに根付いてしまった和製英語はともかくとしても、新たに英語圏で通用しない英語的表現を日本語の中に定着させることには、僕は反対だ。ということで、 HPと言う略し方が嫌いなのである。新聞記者の場合、少しでも略して紙面を有効に使いたいのかもしれないが、日本語を扱うプロなのだから、もう少しその辺も考えていただきたいものである。