テキサス・インターン物語 (9( --- 長い長い火曜日 ---

投稿: 2006年9月11日

新学期に入り、僕はほぼ 1日中、二つの教室のうちのどちらかの授業を手伝っていた。僕が主に時間を過ごしていたのは、高校生を対象とした授業をする先生の教室だった。中学生に比べて高校生の方が各自で異なった内容の課題に取り組んでいたため、より多様な生徒に対応する必要があったので、僕が役立てる機会も多かったのである。

1時間目の授業は、大学進学を目指している生徒 5人の授業だった。彼らの場合、特に学習障害などもないので、基礎的なことを教えてしまえば、後は各自でだいたいのことをこなすことができた。したがって、僕や僕がいた教室の先生は、新しいことを教える場合を除けば、基本的に質問されるのを待っていればいいような状況だった。

この 1時間目の雰囲気は、 5人のうちの 3人の女の子の機嫌に左右されていた節があった。他の二人に関しては、一人は比較的物静かな男の子で、もう一人はいつも明るくて元気でテキサス西部の訛りの強い英語を話す女の子だったのだが、残りの 3人は、 1時間目だということもあるのだろうが、とにかく眠そうにしていることが多く、機嫌が良い時と悪い時の差が極端だった。彼女たちの機嫌があまり良くない時 (だいたいはこのパターンである) は、基本的に教室の空気が重苦しいようなけだるいような感じになったが、彼女たちの機嫌が良い時は、全く雰囲気が変わってしまうのだ。

彼女たちに限らないのだが、生徒たちの雰囲気には、曜日によって異なった傾向も見られた。月曜は休み明けなのであまり元気がない。金曜は週末が近いのでなんだか浮き足だっている。水曜は週の半ばということで、なんとなく疲れが見え始める。火曜と木曜は、だいたい一番普通の状態と言えることが多い。ざっとこんな感じだろうか。考えてもみれば、これは生徒たちだけでなく、今現在の自分や自分の周囲の人々にも当てはまる傾向のような気もするが。

その火曜日の 1時間目も、 3人の女の子たちの機嫌は良くも悪くもない状態で、みんな静かにそれぞれの課題に取り組んでいた。質問もなかったので、僕は教室の片隅でぼーっとしていた。一緒に教えていた先生は、デスクで雑用をこなした後、教室を出て行った。彼がいない間に質問があれば、僕が対応しなければならないので、一応周囲の状況には注意を払っていた。

しばらくして先生が戻ってきて、僕に向かってなんだかよく分からないことを言った。
「初めてアメリカ本土が攻撃されたよ。」
僕は何のことだかさっぱり分からなかったので、「へー」と言うような調子で簡単に応じたと思う。そして彼は
「図書室に行くとテレビのニュースがかかってるから、時間を見つけて見に行くといいんじゃないかな。」
と続けた。相変わらず僕は事態を飲み込めずにいた。そして彼はまたどこかへ出て行った。質問は出そうになかったが、一応僕は 1時間目が終わるまで、その教室に留まっていた。

2時間目は、僕が担当する生徒などは特にいなかったので、普段はいろいろと雑用をこなしていた。何もすることがないような場合もしばしばあった。僕はさっきの先生の言葉が気になっていたので、よく分からないまま図書室へ行ってみた。すると、図書室の真ん中あたりにあるテレビが、緊迫した様子のレポートを流し続けていた。僕は図書室には誰もいないのかと思った。テレビの音を除けば、それほど静かだった。側にあった椅子に座って、なんとなくテレビの言っていることに耳を傾け始めた。未だに事態が飲み込めない。テレビが言っていることがあまりに断片的な情報ばかりでよく分からないのだ。しばらくすると、ようやくキャスターがこれまでの事件のあらましをまとめてくれた。自分の耳を疑った。言っていることは分かったが、すぐには理解できないことだった。 New Yorkの World Trade Centerに飛行機がぶつかった。他にも消息が分からない飛行機がある…。

その時、何人かの人が息を飲むのが聞こえた。何かつぶやいている人もいた。どうやらテレビが言っていることは本当らしい、僕はそう悟った。画面にその時の映像が映し出されているのを見て、今まで静かにテレビを見ていた人たちが息を飲んだに違いなかった。僕も呆然とした。何が何だかよく分からぬまま、しばらくテレビの言うことを聞き続けた。しかし、何も新しい情報はなかった。僕はこのままここにいたら自分がつぶれてしまうのではないかというような気分になってきたので、無理に元気よく椅子から立ち上がって教室へ戻った。

その火曜日は長かった。形式上授業はあるので、生徒たちはいつも通りに教室にやって来る。しかし、生徒たちも僕たちも、とにかく早く 1日が終わって欲しいと思っていたのではないだろうか。生徒たちが来ても、授業らしいことは何もできなかった。子供たちの多くの耳には既にニュースは伝わっていて、彼らの多くが非常に動揺していた。もちろん僕たちも動揺していたが、僕たちの役割は、彼らをそれ以上動揺させないこと、できればその動揺を沈めることだったので、なるべく平静を保たなければならなかった。

ようやく 4時間目がやってきた。これが終わればランチタイムだ。 4時間目も授業にはならなかった。数人の生徒たちと、静かにいろいろなことを話した。僕もしばしば指導する機会があったメキシコ人の女の子が、小さな声でつぶやいた。 ``Why can people do things like that?'' 悲しみと怒りに満ちた声だった。僕だって誰かに聞きたかった。すすり泣く彼女の細い肩を軽く抱いて、背中を軽くたたくのが、僕がようやくできることだった。この時、「ああ、僕にとってこの子たちは、僕の他の友達や家族同様大切な存在になっているんだな。とにかく彼らが無事で良かった。」そんな風に思った。同時に、「友達と言えば、同じ奨学金でアメリカに来ている Kさんが今 NYじゃなかったっけ?」と急に心配にもなった。

ランチタイムはほっとできる時間だった。いつも、基本的に教員だけが利用できることになっている小さな食堂で食事をしていたので、この時ばかりは生徒のことを気にせずに話ができた。そこにいた人たちは、みんな平静を保つのに骨を折っていた人たちばかりだったのだろう、一様にほっとした様子だった。そして、ここで事件に関する続報、学校側の対応などなど、いろいろな情報もやり取りされた。

学校側の対応についても印象に残っているので書いておこう。学校側の対応は早かった。まず、カフェテリアなど生徒が立ち入ることができる場所にあるテレビは、全て使えないようにされた。また、ランチタイムまでには、既にカウンセラーが数人手配されていた。もし動揺が激しい生徒がいたら、すぐにカウンセラーの所へつれていくようにという指示が出ていた。僕はこのカウンセラーの手配の早さには驚かされた。おそらく日本の学校ではこうはいかないのではないかと思ったものだ。

午後の 2時間もこれでもかというくらいゆっくりと過ぎていった。しかし、どうにかこうにか 1日が終わり、僕は逃げるように帰って行った。そして、家に入るとソファーに崩れるように倒れ込み、しばらく動く気が起きなかった。テレビをつけてみた。相変わらずレポートが流れているが、やはり大して新しい情報はなかった。よく分からない評論家などが出てきて、あまり根拠がなさそうな解説をしていたりしたような気がする。誰が何のためにやったのか、まだそれは全く分からず、いろいろな予想だけが語られていた。見ているのがいやになったので、他のチャンネルに変えてみた。しかしニュースばかりだった。普段はテレビショッピングばかり流しているチャンネルも、「重大な事件が起こったので、しばらく通常の放送は休止します」という短いアナウンスを繰り返し流していた。

仕方なく普段よく見ていた NBC系のチャンネルに戻して、なんとなく眺めていた。そして「こういう感覚、味わったことあるな」と思った。しばらく考えて思い出した。地下鉄サリン事件直後に味わった感覚とよく似ていたのだ。誰が何のために何をやったのか、詳しいことは何も分からず、ただ大変なことが起こったという事実だけが伝えられ、いろいろな予想が語られ、何とも言いようのない不安感が僕を押しつぶしそうになる。サリン事件の時と同じだった。そうだとすると、あの時と同じで少なくとも数日たたなければ事件の全貌は分からないだろう、そう考えた僕はテレビを消して、全貌が分かるまではこの事件に関するニュースが意識的に耳に入らないように心がけることにした。

その後、いくつかの雑用を片付けると、食事もそこそこに、随分早い時間に眠り込んでしまった。とにかく僕は疲れていたようだった。

こうして僕が死ぬまで忘れられないであろう、長い長い火曜日は終わった。今から丁度 5年前のことだ。

(第10話へ続く)

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