民主国家日本で発言をするということ

投稿: 2006年12月3日

MSN毎日インタラクティブに「代読発言:発声困難な市議の要求否決 岐阜・中津川市議会」という記事を見つけた。記事によると、下咽頭がんのため声帯を切除し、発声が困難になった市議が、職員による代読発言を認めるように求めているのに対して、議会はパソコン機器での音声変換による発言のみを認めたのだそうだ。さらに記事によれば、この状況に関して人権擁護委員会に申し立てを行った結果、同委員会と県の弁護士会が「法の下の平等を求めた憲法に抵触する」として、代読による発言を認めるよう議会に勧告したのだという。しかし、議会は委員会での代読発言は認めたが、本会議での発言に関しては代読を認めず、パソコン機器を使った音声変換による発言のみを認めているのだという。

さて、これをどうとらえれば良いのだろうか。代読発言のどこに問題があるのだろうか。僕がちょっと考えてすぐに思いつくのは、その代読された発言が本当に市議本人が意図した発言かどうかを保証できなければまずい、ということだが、これは市議が出席している場で読み上げられるわけだから、さほど難しいこととは思えない。もしその程度では十分でないというなら、あらかじめ発言の内容を本人が証明すればよいだけの話ではないのだろうか。しかし、代読発言を認める決議が、 27対5という大差で否決されているというのだから、僕には考えも及ばないことがきっとあるのだろう。 (中津川市議会の会議録公開ページも見てみたのだが、つい最近の話なのでまだ掲載されていないようだった。)

それにしてもこの大差の否決には驚かされる。市議というからには、市民の声を市政に反映されるべく選ばれた人である。その人が発言を制限されているとすれば、それは市民がないがしろにされているのと同じことだ。合成音声による発言が認められているのだからそれで良い、という考えもあるだろう。確かに全く発言を認めていないわけではないから、その部分は評価されるべきだろう。しかし、人に物を伝える時、人は最もその意図が伝わりやすい方法を選んで意見表明をするものである。発言の際にどんな合成音声を使っているのかは分からないが、現在市場に出回っている合成音声では、慣れていない人は聞き間違えることもあるだろうし、発言に当たって協調したい部分などを適切に表現できそうにないという問題がある。議会のような場では、本来ならば発言方法によって聞き手の評価が変わるようなことがあってはならないと思うが、聞き手は機械ではなく人間なのだから、なかなかそうもいくまい。そう考えると、発言の手段が合成音声だけに制限されるのは不当であるという気がする。問題もあるかもしれない。しかし、その問題を取り除く工夫をして、結果として民意が市政に反映されるようにするのが市議会の仕事なのではないのだろうか。

ところで、この記事を読んで思い出したことがある。最近の法律がどうなったかは分からないのだが、 15年か 20年くらい前、政見放送というのは、候補者本人の声を伝えなければならないという規定があったそうだ。そのため、手話しかできない聴覚障害を持つ候補者が、政見放送の際に手話通訳を介して話したいという希望が聞き入れられず、結局手話が分からない人には何も伝わらない政見放送をせざるを得なかったことがあるという話を聴いたことがある。と書いてから、ちょっと検索してみると、しゃべれない障害者の政見放送に通訳を入れることは認められるようになったようだが、「そうしなければならない」というものではないらしい。被選挙権を有する人たちには、平等にその主張を伝える手段が与えられなければ、公正な選挙をすることなどできないのではないかという気がしてしまう。そして、以前にも書いたように選ぶ側にも平等な機会が与えられているとは言えない状況もある。本当にこの国は民主国家なのか、議員の先生方にはしっかりと考えて具体的な行動を起こしていただきたいものである。

ともあれ、前述の中津川市議会の件については、ちょっと注目していきたい。

追記: ちょっと検索していたら、こんなページを見つけました。
Wikipediaの雑民党に関する記述