テキサス・インターン物語 (10) --- 惨劇の後 ---

投稿: 2007年2月24日

前日の夜、早々に寝てしまったので、 9月 12日の朝は随分早く目が覚めた。習慣的に、いつも聞いていたラジオの朝のニュース番組をつけてみた。深い眠りから覚めて、ひょっとすると昨日起こったことは夢だったのではないか、などとぼんやりとした頭で考えていたのだが、いつもなら軽快な音楽で始まるその番組が静かな音楽で始まり、いつもよりも抑えた調子のキャスターの声が聞こえてきて、僕は現実に引き戻された。そしてまた、前日の惨劇に関するニュースが流れてきた。

聞くとも無しにニュースを聞きながら、いろいろなことを考えた。まず、まだ日本にいる両親に連絡をとっていなかったことを思い出した。ニューヨークは随分離れているから心配する必要がないというのは分かりそうなものだが、経験的に両親が少なからず心配しているであろうことが想像できたので、とりあえず電話しておくことにした。オースティンの早朝は、日本では夕方なので都合が良かった。電話をしてみると、やはり少々心配していたようだった。

他にも心配してくれていそうな何人かの名前が思い浮かんだ。この人たちには、わざわざ電話しなくても、メールを送っておけば良さそうだった。ところが、間が悪い事に、日本から持ってきていたラップトップ PCは、3週間ほど前から、修理のために日本に送り返されていた。そのため、日本語の読み書きをする手段が全くなく、少々面倒な状況だった。

ところで、きわめてばかげた話なのだが、ついでなのでなぜパソコンを修理に出すはめになったかも書いておこう。8月の夏休みが終わる直前に、僕はいつものように夜のコメディー番組を見ながら、メールを読み書きしたり Webを眺めたりしていた。ところが、ぼんやりしていたのか何なのか、パソコンの横においてあった飲みかけのビールの瓶に手が当たり、瓶が倒れてビールがキーボードの上にぶちまけられてしまったのである。即座に瓶を起こしたので、それほどひどいことにはならなかったのだが、やはりある程度の量のビールがキーボードからパソコン内部へと進入してしまった。とりあえずパソコンを逆さにしてみると、ぽたりぽたりとビールが出てきた。そのビールが出てこなくなってから普通に机の上にパソコンを置き直したら、なんと今度は ACアダプタのコネクタから泡が出てきた。その泡も出てこなくなった後で、一応パソコンを立ち上げてみたのだが、見た目には問題なく動いているようだった。ただ、予想通りと言えばそうなのだが、一部動作がおかしいキーがあった。キートップを外して乾かしてやれば直るのではないかと思ったので、そんなキーのうちの一つのキートップを外してみたのだが、外し方が悪かったのか、そもそも外せるように作られていなかったのか、二度とつけられなくなってしまった。いずれにしてもキーボードはちゃんと動いてはいなかったわけだから修理の必要があったことには変わりないのだが、この僕自信の行動がとどめを刺した形となり、このパソコンは日本へと送り返されることになったのだった。

そんなわけでメールの読み書きをすることもできず、両親との電話を切ってからしばらくぼーっとラジオを聞いて時間を過ごした。そして、やがていつも通りの時間に準備を始め、軽い食事を取り、そして学校へと出かけて行った。

先生も生徒も、みんななるべく普段と同じように振る舞おうとしていた。前日と比べると、生徒たちは随分と落ち着きを取り戻しているように感じられた。授業も、だいたい普段と同様に行われていた。しかし、授業の合間や、授業中に特にやるべき作業がない生徒たちとの雑談は、普段とは違ってやはり今回のテロ事件に関する物が多かった。普段なら、生徒がニュースの話題に興味を示せば、適当なニュースサイトにアクセスして自分でニュースを読むことをすすめることが多かったのだが、この時は、ニュースサイトは軒並みアクセスが集中していたようで、全くつながらない状況が続いていたのでそうもいかなかった。

前述のような理由で、僕は家にいる時には一切インターネットにアクセスできない状況だったので、手が空いた時を見計らって、教室の PCを使ってメールを確認した。もちろん日本語のメールをそのまま表示することはできないのだが、あれこれと工夫して、日本語のメールであってもローマ字に変換して表示させることはできたので、パソコンを送り返してからはずっとこの方法でメールを読んでいた。きわめて読みにくく随分時間がかかったが、どうにか重要そうなメールに関しては読むことができた。予想通り、何人かの友人が心配してメールをくれていた。ほとんどの友人は、こちらが英語でメールを書いても問題ない人たちだったので、日本語が書けないことを説明して、とにかく無事であることを伝える英語のメールを書いた。

同じ奨学金のプログラムでアメリカに来ている仲間たちからもメールが来ていて、みんな無事だったことが分かってほっとした。特にニューヨークにいた Kさんに関しては本当に心配だったが、済んでいたのがマンハッタンではなかったとのことで、彼女本人には直接的な影響はなかったそうだ。

そんなメールに混じって、このプログラムの事務局の人から、無事なら連絡するように、というメールも来ていた。ところが、この人には英語のメールを送るわけにはいかなかった。仕方がないので事務局に電話で連絡することにしたのだが、その電話番号をメモしたファイルが、修理中の PCに入っていることを思い出した。一瞬途方に暮れたが、過去にやりとりしたメールなどからどうにかこうにか問題の電話番号を掘り出して、翌日には電話することができた。

この事件が起こるまでは、日本語の読み書きができなくてもそれほど不自由を感じなかったのだが、いざこういうことになってみると、日本語を扱える PCがないことが実に不便だった。以前に留学した時には、ほとんど日本語に触れる機会がなかったことを考えると、随分と変わったものである。いずれにしても早く手元に戻ってきてくれないと、ますます不便になりそうだった。本来は、そろそろ修理が終わって戻ってくる頃だったのだが、テロの影響で全ての航空便が止まってしまっていたため、まだしばらくの間、日本語環境がない暮らしをしなければならなそうだった。

その日も時間が流れるのは必要以上にゆっくりだったが、どうにかこうにか 1日を乗り切ることができた。授業が終わった後、以前にも書いたが、引っ越し先のアパートの契約手続きをしに出かけて行った。ここしばらくの僕にとって、最も大きな問題の一つが片付いて、疲れ切っていた僕の気持ちが少し軽くなったような感じがしたものだ。一瞬立ち止まって前に進めなくなりそうになった僕の気持ちが、これでまた前に進んでいけるかもしれない、そんな気分になった。僕は、普段接している子供たち、一緒に働いている先生たち、大切な友人、そして僕自身がこうして無事でいることに感謝し、その事実を大切にして一歩一歩前に進んで行くしかないのだ、そんな風に自分に言い聞かせていた。

最後に、当時日本にいた友人の一人が、事件直後にくれたメールのうちの 1通を紹介する。アメリカという国の外にいた人も、中にいた人も、あの国に友人がいた全ての人が、この短いメールに凝縮されたのと同じ気持ちだったのではないだろうか。僕自身も、アメリカにいた全ての友人のことを思い、こんな気持ちになったものだ。今でも、あの時みんながくれたメールや自分が送ったメールを読むと、自然と涙が出そうになる。改めて、今更だけれど、あの時心配してくれたみんなにお礼を言いたい。本当にありがとう。

Date: Wed, 12 Sep 2001 01:21:51 +0900
Subject: 無事ですか?

アメリカ大変なことになっているので、心配です。
あまりにむごい。

無事を祈っています。
どうか無事で居てください。

(第11話へ続く)

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