日頃の「手助け」に感謝(?)
先週末の各紙 (のサイト) に、内閣府が行った障害者に関する世論調査の結果に関する記事が掲載されていた。多くの記事は、回答者のおよそ 8割が、社会に障害者に対する何らかの差別があると考えているということを中心に伝える短いものだったのだが、産経のニュースサイト iza!に掲載された記事では、もう少し詳しくこの調査の結果について伝えている。「障害者の手助け経験、7割が「ある」 世論調査」という見出しを読んで、「確かに世の中親切な人は結構多いからなあ」などと思ったのだが、同時にいくつかの疑問も感じてしまった。
確かに世の中親切な人は多い。毎日のように外出していると、手を貸してくれる人に出会わない日はないと言っても良いだろう。しかし、こちらが望むか望まざるかに関わらず手を貸してくれる人というのも少なからずいる。
つい数週間前もこんなことがあった。いつものように電車に乗ったのだが、そこここに立っている人がいて、結構込んでいることがすぐに分かった。特に疲れていたわけでもないし、それほど長い間乗っていなければならないわけでもなかったので、素直に座るのはあきらめて、立ちやすい場所を探してゆっくりと歩いていた。すると、いきなり左肩にかけていたリュックをぐいと引っ張られた。あまりに強い力で引っ張られたので、リュックはずり落ち、バランスを崩し、思わず左膝と左手をついてしまったほどだ。何事かと思いつつ立ち上がると、引っ張った手の主と思われる男が「座る?」と横柄な調子で言った。「結構です」と静かに言ってその場を立ち去るのに苦労するほど腹が立ったが、そこでけんかしても誰のためにもならないので、こらえて立ち去った。
こういうことは結構ある。昔はいちいち腹を立ててにらみつけたりしていたが、最近はなるべくそういうことをしないようにしている。物は考えようで、彼らにしても元々は善意からやっていることである場合がほとんどだろう。 (一部には差別的意識から見下す気持ちでやっているのではないかと思えるような場合もあるが) 善意に基づいた行動だとすると、単に彼らはその善意の表現方法を知らないだけなのであって、それは経験が少なければ仕方がないことなのかもしれないと思うようになった。なんだか変なたとえで分かる人にしか分からないと思うが、コンテンツ (のセマンティクス) とプレゼンテーションは分離して評価するべきなのではないかという気がするのだ。もちろんセマンティクス (気持ち) とプレゼンテーション (表現方法) の両方が優れていることに超したことはない。しかし、優れたセマンティクスと優れていないプレゼンテーション (これがよくある善意の表現が適切でないケース) の方が、優れていないセマンティクスと優れたプレゼンテーションの組み合わせよりははるかにましだと思うのだ。
話がそれたが、この世論調査の結果に関してまず感じた疑問は、「望まれざる手助け」をした人の数もこの数字には含まれていて、僕たち障害者の意識とは必ずしも一致しない結果になっているのではないかということだ。しかし、これよりももっと気になる点があった。リンクした産経の記事は以下のように伝えている。
「気軽な会話や手助け」の経験があると回答した人は68・4%で、前回調査(平成13年9月)から9・6ポイント増えた。内容(複数回答)は、「相談相手や話し相手になる」が53・7%で最多。次いで「車いすを押した」「横断歩道や階段で手助けをした」「席を譲った」などが続いた。
「気軽な会話」と「手助け」というのが同列に扱われていることに大きな疑問を感じる。これは記者のまとめ方の問題なのかもしれないと思ったのだが、冒頭でリンクした内閣府の調査結果のページを見ると、調査の設問がそうであることが分かる。結果の概要の「2. 障害者とのふれあいについて」の中の「(4) 会話や手助けの経験」に具体的に示されている。
繰り返すが「気軽な会話」と「手助け」が同列に扱われているのは実に不自然だと感じる。たとえば僕の親友 (の健常者) や同僚 (の健常者) が、いちいち手助けをするという意識に基づいて、昨日食ったラーメンの味について僕とやりとりをするだろうか。そんなわけがない。 (もしそうだったら僕は本当に悲しいし、そんな手助けは欲しくない。) さらに言えば、この設問で提示されている選択肢には、「一緒に遊んだ」などというのまである。
ノーマライゼーションという言葉がある。社会の中に普通に障害者も暮らしているような世の中を作ろう、簡単に言ってしまえばそういう意味だ。「障害者との気軽な会話の経験」は、ノーマライゼーションの実現の度合いを判断するための材料となるだろうから、これを尋ねることには意味があると思う。しかし、「手助けをする」というのは、これとはちょっと違うのではないかと思うのだ。それとも、障害者というのは気軽な会話の相手にするのははばかられるほど世間から疎んぜられていて、気軽な会話の対象にならないような哀れな存在で、気軽な会話をすることが手助けになるということなのだろうか。そして、障害者としての苦労をあまり意識することなくぬくぬくと育ってきた上に鈍感な僕は、そういう世間の意識に気づいていないだけなのだろうか。もし調査をした内閣府が「気軽な会話をすること」が「手助けになる」と考えているのだとすれば、少なくとも内閣府は世間にはまだそういう差別意識が根強く残っていることを前提にしているのではないかという印象を受ける。それならそれでいいが、そういう前提や思いこみを感じ取れてしまうような設問が入っているというのは、調査方法としては適切だとは言えないのではないだろうか。
試しに、この設問のそれぞれの選択肢について、5年前の前回調査の結果と比較してみた。すると、「話し相手や相談相手」 (気軽な会話) と「一緒に遊ぶ」の伸び率が高く、他は横ばいもしくは減少していることが分かる。複数回答の設問なので、調査結果を詳しく見ないとはっきりとしたことは言えないのだが、「会話や手助け」をしたことがある人の 10パーセント近い増加に、「気軽な会話」の経験者の増加が少なからず影響していることが推測できる。こうして見ると、本来は別々の設問で調べるべき事柄を一つの設問にまとめることで、より好ましい結果を導き出しているのではないかと勘ぐりたくなってしまう。
ともあれ、この記事を読んで、それから調査結果をちょっと眺めてみて、僕の周囲の人を始、いろいろな人の考えを聞いてみたくなった。その上で言いたい、手助けだと思って日常的に僕に接してくれてきた皆様、今までありがとう、もう結構です、と。そしてもう一言、そうでない皆さん、本当にありがとう、これからもこれまで同様の友達づきあいをしていただけるとこの上なく嬉しいです。
ところで、問題の調査結果のページには「お願い」として、調査結果を引用した場合にはその部分の写しをファックスまたは郵便で送付するように、などという記述があったので、あえて調査結果のページから直接引用することはしなかった。今時メールも受け付けていないとは驚きである。僕が担当者ならトラックバックを受け付けるくらいのことはするのだが。