テキサス・インターン物語(11) --- 教員研修 ---

投稿: 2007年7月15日

オースティンの 9月は、そろそろ暑さも和らぎ、徐々に過ごしやすくなってくる季節だ。でも、 2001年の 9月の空気は、その温度こそ下がりつつあったが、暑い太陽の下で感じるのとはまた別の重苦しさに満ちていた。テロ事件の直後、落ち着きを失っていた子供たちの多くは、少なくとも表面上は普段と変わらない様子に戻った。大人たちも、一応普段通りに仕事をしていた。とは言っても、みんなどことなく疲れているようだった。みんなが疲れていたから空気が重く感じられたのか、それとも空気が重く感じられたからみんなが疲れたのか、そのどちらかはよく分からない。きっと両方なのだろう。テロ事件があったのは火曜のことだったから、その後、普通ならもう三日間授業がある。ところが、この週はたまたま (だと思う) 金曜に、全教員を対象とした研修が予定されていて、この日の授業は一切行われなかった。この研修の話を木曜の午後に聞かされた時、僕は正直なところ随分とほっとしたものだった。

この学校では、数ヶ月に一度、このような研修が企画されていた。内容はいろいろだが、基本的には視覚障害者教育に関する一般論を扱うものだったと記憶している。より具体的な内容を扱う研修は、対象を絞って実施されていた。この日の研修は、確か自身も視覚障害を持つ教育関連の女性による、障害者としての自分の経験、教育関係者としての経験などに関する講演会が中心だった。その後、分科会のようなものもあったかもしれないのだが、関心のあるテーマの物がなかったのか、僕は出席した記憶がない。

この講演の内容については、すでにほとんど覚えていないのだが、二つだけ覚えていることがある。一つは、この女性が子供だった時に、初めて自分が目が見えないということを意識した時の話だ。記憶が曖昧なのだが、彼女は 3歳だか 4歳の時に、ちょっと離れている所にいた人の存在に目が見えていた兄弟が気づいたことに驚かされたのだという。彼女は、その時初めて周囲の人々は自分には感じられない物を感じ取る力があるのだということを認識したそうだ。しかし、僕はこの話に首をかしげた。もちろん、自分の障害を意識するきっかけとか時期とかいったことは人それぞれ異なるものだと思うのだが、それにしてもこれはなんだか遅すぎるような気がしてならなかったのだ。僕自身のことを振り返ってみると、実は自分が目が見えないことを意識したのがいつだったのか、さっぱり覚えていない。物心ついた時には、すでに目が見えないのが当たり前だと思っていて、そして周囲の人々は僕とは違って目が見えていることも知っていたような気がするのだ。だから、先天盲の人がこれほど明確に「見えない」ことを意識した、という話にはなんだかすごく違和感を覚えたのだ。講演会の後に、このことを何人かの同僚に話してみたのだが、やはりみんな似たような感想を持っていたようだった。

もう一つの覚えていることというのは、視覚障害、もしくは視覚聴覚の両方に障害を持つ生徒の指導に際して注意すべき点として彼女が挙げていたことだ。それは、全盲だったり残存視力が弱い子供たちを指導する時、しばしば彼らの手を取って指導する必要があるわけだが、そのような時に彼らの了解を得ることなく手を取って指導するのは良くない、という指摘だった。これにははっとさせられた。僕自身、頼んでもいないのに手を取られるのが嫌いなのだが、僕が指導する側に立った時にはこのことを必ずしも意識していなかったように思われたからだ。話の流れから、手を取って指導するのが成り行きとして自然な場合がほとんどなのだが、それでもやはり「ちょっといい?」と一言断ってから手を取るのが望ましいだろう。そんなことは僕自身が一番よく知っているはずなのに、どうもその点はおろそかになっていたかもしれないように思われ、かなり反省させられた。

この 1日の研修は、教員にも子供たちにも良い影響を与えたようだった。たぶん、みんなそれぞれ、普段の心持ちと普段の生活を取り戻すために、多かれ少なかれ苦労をしていた時に、丁度良いタイミングで一息ついて、そして前へ踏み出すきっかけをくれたのではないだろうか。テレビやラジオをつければ、相変わらず重苦しい空気を感じざるを得なかったのだが、週明けの学校の雰囲気は随分と良い物になったように感じられた。そして僕はというと、少ない荷物をまとめて引っ越しの準備を始めていた。

(第12話へ続く)

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