学校のための学校
AFSという国際交流団体がある。高校留学を志したことがある人ならほとんどの人が耳にしたことのある名前だろう。その AFSを通して日本から留学する高校生が最近減っているということを伝える記事が目に止まった。
最大の理由は生徒たちが通う高校側の事情だ。AFS交換留学に応募するには高校からの推薦状が必要である。有名大学合格率が下がることを懸念し、高校側がこれに難色を示すケースが、特に地方の有名進学校に多いらしい。
「うちでは留学は認めていません」。教頭先生が冷たく言い放った。高校2年の秋から米国ミシガン州の公立高校での交換留学が内定していた山田雄一君(仮名)の夢はこの一言でついえた。
彼は四国のある名門進学校に通う高校生だ。成績抜群の雄一君は中学のころから将来は英語を使って世界を舞台に仕事をしたいと望んでいた。AFS交換留学を通じて国際的な視野を広げ、いつか世界の恵まれない人々を助けたり、日本の環境技術を使って地球温暖化を食い止めたいと思ったのだ。その後も、雄一君の両親が校長先生に何度も食い下がったが、結果は変わらなかった。
もしこれが事実ならあきれてものも言えない、これが正直な感想だ。学校とは何のためにあるのか。子供たちの才能を伸ばし、結果として社会に貢献できる人材を育てるものではないのか。立派な志を持っている高校生の夢を奪い、彼が日本、いや世界の社会に貢献できる可能性を低くしてしまう。それは彼だけでなく、社会全体にとって大きな損失につながるのではないのか。社会が「学校」の役割として求めているのは、こんなことではないはずである。
こんな学校が存続しては、社会のためにもならないし、何より夢や可能性を制限されてしまう生徒のためにならない。こういうふざけた学校は、その名前を公表するようにすべきだろう。学校が自身でそういう方針を明らかにしないのであれば、役所が強制的にやればいい。なんといったってこれは生徒の利益、そして社会の利益に係わる問題なのだから。それに、学校だって留学して得られる知識や経験よりも価値のある教育をしているという自負があるから留学を認めないのだろうから、むしろ宣伝になって良いだろう。
とここまで留学が絶対的に有益であるかのような書き方をしてきたが、もちろん必ずしもそうではない。留学中の本人の姿勢、留学先の環境などあらゆる要因で、場合によってはむしろ悪い結果をもたらすことだってあるだろう。しかしこういう側面は、留学せずに教育を受けていてもあることだ。名門大学に行って官僚になった人間で、とても社会に貢献したとは言えないような者だって少なからずいるはずだ。留学によって仮にあまり好ましくない結果がもたらされたとしても、日本にいたのでは絶対に得られない経験ができることは確かであり、これは後に必ず財産にすることのできるものである。本当に財産になるかどうかは、いうまでもなくその後の本人の姿勢次第だが、得た経験や受けた教育を財産にできるかどうかがその後の本人の生き方にかかっていることは、留学してもしなくても同じことだろう。
なぜこんなことを書いているかというと、僕自身高校留学のおかげで今があると感じることが少なくないためだ。僕の場合は AFSではなく、太平洋教育文化交流協会 (PEACE) という団体の世話になったのだが、高校時代におよそ 1年間アメリカに留学する機会に恵まれた。この時に得たものは本当に大きいと感じる。アメリカで統合教育を受けたこと、ホームステー先の家族とのぶつかり合いながらの生活、いろいろな国籍の同世代の友人たちとの出会いと別れ、そして平均的な日本人よりもちょっとだけ優れた英語力。他にも本当にいろいろなことがあった。そして今振り返ると、当時は憂鬱の種だった家族との確執でさえ、今の僕には大事な経験だったと言い切れるほど、あの時得た経験の全てが今の僕には有益なものだったと感じるのだ。
人間的に育ててくれたという側面だけではない。 (育ってこの状態かよ、という友人諸氏の声が聞こえてきそうだが、まあ基が悪いのでこんなもんです、はい) 帰国後の進学、学生時代のアルバイト、その後の研究活動や就職、どれをとってもあの時手に入れた英語力が大きな助けになっていることは明白だ。あの1年がなかったら、今僕は全く違った人生を送っていただろう。もちろんそれも悪くないかもしれない。実際、留学してなかったら今頃どうなっていたのか、結構興味もある。しかし、あの経験、そしてそこから得たものが僕により多くの選択肢を与えてくれていることだけは間違いがない。
だから僕は、留学に限らず、視野を広げられるような経験を若いうちにすぐことがどんなに有益なことなのか知っているつもりだし、多くの若い人たちがそういう機会に恵まれて欲しい。そして、教育制度とか学校とか教育者とかが、そういう若者のチャンスを奪うような存在には決してなってはいけないと思うのである。