若者をぼやく年寄りを目指して
友人のブログでなかなかの傑作発見。こういう妄想ができる人はすごい。
MORAL:
道具がどんなに便利になっても、人間が工夫をする余地というものは当然に存在する。自分が若い頃に苦労して身に付けた技能が役立たなくなったからといって、若者を馬鹿にすべきではない。
という結論にたどり着くまでの彼の「妄想」がなかなか面白い。
でちょっと考えたのだが、人間が身につける技能というのは、技能そのものが重要で次世代へと伝えていかないとならないものと、技能を用いた結果として行われる行為や作り出されるものが重要で、それを実現するためにどのような技能が用いられるかがさして重要ではないものに分けられるような気がする。前者は伝統工芸なんかで、後者は人間が暮らしていく中でやらなければならない、煮炊きだったりコミュニケーションだったりで、友人の妄想に出てくるようなものだ。
前者については、その技能と同等のことをやってくれる機械を作ることが難しいと少なくとも今は考えられているものなので、「自分が若いときに身につけた技能が役に立たなくなる」ということはあまりないだろう。もちろんその技能に対する社会的な評価が下がってしまえばそうも言ってられないのだろうけど。
後者については、先人の苦労の結果、何かをするためのプロセスが幾度となく見直され、様々な削除や追かが繰り返され、最適化されて今にいたっているわけだから、むしろ昔より楽になっていて当たり前なのかもしれないという気がする。少なくとも情報技術の研究の世界なんかでは、昔よりも楽になり、一般的なタスクの実行に際して必要な技能が減るような方向で研究が進められないと困るのではないだろうか。つまり、「最近の若い者ときたら」と言えないというのは、その世界に身を置く人たちの努力が十分でなかったのか、努力の方向が間違っていたのか、それとも問題が大きすぎるか、ということなのだろう。
「最近の若い者ときたら」と言える大人たちは、彼らの努力の結果若者たちに利便を供与し、結果として若者たちが技能を習得する必要と機会を消し去った人たちなのかもしれない。そう考えると、僕も将来「最近の若い者ときたら」と堂々とぼやけるような年寄りになることを目指して働かないといけないのかもしれない、などと思った次第である。もっともそんなことばかりを言うような年寄りにはなりたくないが。