「アクセスできること」がアクセシビリティ、それを忘れてはいませんか?
アックゼロヨン・アワードという、Webサイトを表彰するアワードがある。このアワードのホームページにアクセスすると、「年齢や性別、障害の有無、ITリテラシの高低に関わらず、誰にとっても使いやすいウェブサイトを表彰します。」というaltがついた画像がある。これだけを見るとアクセシビリティやユーザビリティだけが評価対象のアワードのように感じられるが、同アワードの審査のページに示されている評価軸には、「デザイン表現」や「アイディア」という項目も含まれているので、決してアクセシビリティやユーザビリティだけが評価されるアワードではない。僕自身も前回まで審査員の一人として関わっていたが、アクセシビリティのことを気にする人にとっても気にしない人にとっても「クールな」あるいは「いけてる」Webサイトを表彰しよう、というのが基本的な考え方だったと理解していたし、その点については今回も変更はなかったと思う。つまり、このアワードでグランプリを受賞すれば、それはアクセシビリティも高く、使いやすく、見た目も含めて格好がよい、というすばらしいサイトであるということになるはずだ。そのアックゼロヨン・アワードの第4回の入賞サイトとグランプリ受賞サイトがしばらく前に発表され、つい先日授賞式も行われたらしい。そこで早速グランプリのサイトを覗いてみた。
グランプリを受賞したのは、文部科学省のサイト内にある どんな?文科!数字で見る文部科学省というコンテンツだ。アクセスしてみると、このコンテンツに関する説明が書かれたページが出てきた。なんでも、表示される日常的な風景やイラスト、様々な数字を基に文科省の取り組みが分かるようになっているコンテンツらしい。そしてその説明文から、このコンテンツそのものはFlashを使って提供されているものであることも分かる。早速コンテンツへのリンクをクリックしてみた。
リンクをクリックすると、Flashコンテンツの読み込みが始まり、その進行状況が何パーセントかという数字が、スクリーン・リーダーでも認識できる形で表示された。 (実際には表示はされていないのかもしれないが、少なくともスクリーン・リーダーには認識できる形だった。) 効果音も再生されるが、音量も適当でスクリーン・リーダーの利用の妨げになるような種類のものではないように思う。こういった状況から、Flashコンテンツではあってもそれなりに使えるものなのではないかという期待を持った。それにそもそもアックゼロヨンのグランプリなのだから、アクセシブルなFlashでないわけがないという考えもあった。しかし、コンテンツの読み込みが終わって出てきたものは、お世辞にもアクセシブルとは言えない代物だった。
アクセシブルではない以上、どこがどう読めない点がよくないのか、などということを僕が書くことはできない。が、とりあえず感じたことを書いておく。まず、JAWS 9.0でアクセスした場合、ラベルがついていないと考えられるボタンがいくつか現れる。そして、画面は動的に変化しているようで、ボタンの数などもその時々で違っているような印象だ。ためしにその中のボタンのいくつかを押してみると、何らかのテキストがJAWSにも認識可能な形で表示される。しかし、自分が押したボタンが何のためのボタンなのかがさっぱり分からないので、このテキストを読めることにさして意味はないと思う。
Flashコンテンツの場合、スクリーン・リーダーが変わると読み取れる情報も大きく変わることが時々ある。そして、必ずしもJAWSの方が優れているわけではない場合も、僕の過去の経験ではあった。そこで、PC-Talker XP 3.08でもアクセスしてみた。コンテンツの読み込み中に進行状況を確認できるのはJAWSと同様だった。しかし、コンテンツの読み込みが終わった後の状況はひどいもので、Flashコンテンツを全く認識していないようだった。必要な画面サイズとかFlashが必要とかいう情報が読み上げられるだけで、ページのソースを見たわけではないのだが、おそらくHTMLで書かれていることが読み上げられているのだろうなという印象だった。
この段階で僕は、「これがグランプリとはどういう了見だ!?」と思った。そこで、改めて結果発表のページを見てみると、審査の評価軸となった6項目について、書く審査員のつけた点の平均点と思われる数値が掲載されていた。このグランプリのサイトの場合、アクセシビリティの評価は6.0となっている。 (明確な記述をこのページ上に見つけられなかったが、満点は10点だと思われる。) そして、評価軸に関する説明のアクセシビリティに関するところには「JIS X 8341-3やWCAG1.0などのアクセシビリティガイドラインと照らし合わせて、アクセス性が確保されているか。」とある。つまり、単純に考えれば、このサイトの場合は6割方これらガイドラインの項目を見たし、アクセス性が確保されている、というのが審査員の判断なのだということになるだろう。
では僕が審査員だったらどう判断したかを書いておこう。じっくり見てはいないが、おそらくHTML部分の記述はそれなりのものだと思う。そして、その部分だけを判断対象としてWCAGとかJIS X 8341-3とかを基準に考えれば、かなり高い得点になると思う。しかし、Flash部分はどうかというと、基準を満たすとか満たさないというレベルではない。ここで審査員の考え方や、もしあるならアックゼロヨンの審査基準がどうかで判断が変わってくる。6.0という数字は、きっと「Flash部分は満たしてないから減点だよね」という感じの判断から出てきたものではないかと思う。しかし、僕が審査するなら「Flashが読めなきゃこのサイトでは何も情報が伝わってこないんだからアクセシビリティは高いとか低いとかじゃなくて『無』、よってこの評価軸の評価は『0』」と判断する。
WCAGやJIS X 8341-3の基準を満たすことにはそれなりの価値がある。しかし、見た仕方を間違えば、「満たしているけどアクセシブルではない」という状況は簡単に生まれてしまう。そしてさらに重要なことは、サイトにアクセスする利用者が求めているのは「基準を満たしていること」ではなく「読めること、読みやすいこと」だということである。まず読めるかどうかを判断した上で、ではそれがどれだけ読みやすい (アクセスしやすい) かを判断するためにWCAGなどの基準が用いられるべきであって、読めるかどうかの判断に当たってこれらの基準だけを使うべきではないのだ。読めないサイトがいくら基準を満たしていても全く価値はないということは、考えなくても分かることだろう。
では、Flash中心のサイトがアクセシビリティ面で高評価を得ることは難しいのだろうか。決してそんなことはない。Flashをアクセシブルにできなくても、同じ情報、同じメッセージを伝えることができる別の形式のコンテンツがあれば全く問題はない。その場合、いくらFlashコンテンツのアクセシビリティが低くても (なくても) 、その代わりのコンテンツのアクセシビリティが高ければ、サイト全体に対するアクセシビリティ評価は高いものになってしかるべきである。そのように、全体を見てまず第1に「すべての人に情報/メッセージが伝わるか」、そして「それらの実装手法はアクセシビリティを向上させるものか」という判断をして審査すべきなのではないだろうか。 (言うまでもなく後者においてWCAGやJIS X 8341-3はきわめて重要な判断材料になる。)
ということで、この文科省のサイトについても、適切な代替コンテンツが提供されていれば問題はないと思う。が少なくとも入り口になっているHTMLのページにはそのような説明は見あたらない。と思っていたのだが、先日行われた授賞式について伝える記事の中にこんな記述を見つけた:
Web担当者Forum - 「第4回アックゼロヨン・アワード」グランプリを表彰。28人の専門家が評価する誰もが使いやすいサイトは
森川氏はグランプリ受賞について、「性別や年齢、いろいろなものを超えてユニバーサルな社会を作っていくことに近い考え、ウェブサイトであれば、ITのリテラシーの差を乗り越えた、誰にとっても使いやすいサイトを表彰したいとアワードをやってきた。今回、『どんな?文科!』を見て、非常に広い年齢層にアプローチされている」と語り、子どもに対してPDFをプリントして冊子の形で見せるアイデアなど、アクセシビリティのバリアが始めからないことを感じさせるサイトであると評価していた。
日本ウェブ協会理事長の森川 眞行氏の発言である。なるほどPDFという代替版はあるらしい。しかしそれを手に入れるためにはおそらくFlashコンテンツを使えなければならない。これのどこが「バリアがない」というのか。子供たちにも使えるからアクセシビリティが高そう、そういう印象を持つのは勝手だし、実際重要な側面であることも否定しない。しかしこれは障害児教育だってやっている文科省のサイトだ。そういうことを考えると、いくら印象としてアクセシビリティに配慮されていても実際に障害児が使えないようなものがグランプリを受賞するなどということは考えられないことだ。アクセシビリティ的側面を前面に出しているアワードなのだから、そういう一般の利用者の感想のような評価ではなく、Webに関わるプロとしての技術的評価や利用者の多様性を意識した評価をするべきだろう。
森川氏といえば、こういう発言も目にした:
du pope : NAKANO Hajime's Blog - 第4回アックゼロヨン・アワード授賞式で考えたこといろいろ
デザインと違い、アクセシビリティはJIS X 8341-3やWCAG 1.0など明確なガイドラインを元にした評価であり、数値化もずっとしやすい。制作時の対応も同じはず
こういう考えなのだとすると、何というか本当に残念だ。上述の通り、極端なことを言えばWCAGに書かれていることの全部を満たしていたとしても、やり方がまずければ全くアクセシビリティのないサイトを作ることは可能だし、WCAGを意識していなかったり、あるいは意識的に特定の項目を無視したりして作られたサイトでもアクセシビリティの高いサイトは存在するはずだ。これはアクセシビリティに限らない話だが、いくらヒューリスティック・テストをしっかりしても、ユーザー・テストを全くしていなければ使い物にならないものができあがってしまう可能性は高い。この森川氏の発言は、「ヒューリスティック・テストをちゃんとやれば基本的に問題ない」とも受け取れてしまうのだが、現状がそうではないことは期せずして今回のグランプリ受賞サイトがよく示してくれているではないか。
繰り返しになるがアクセシビリティの高いサイトを作るということは、単純にWCAGやJIS X 8341-3に準拠したコーディングをする、ということではないはずだ。「こういう利用者がいて、こういうニーズがあるから、こういう風にするとちゃんと情報やメッセージが伝わるんじゃないかな」ということを真剣に考え、それをコードという形にして吐きだしていく作業だ。WCAGに「画像にはaltを」というようなことが書かれているからといって適当にaltをつければそれでよし、というのではなく、その画像が出てくる文脈において一番その画像の役割が正しく伝わるaltを考えてつける、そういうことが必要なのである。WCAGやJIS X 8341-3の各項目について、それがどういう人のどういうニーズを満たすためのものなのかを正しく理解した上でその項目を満たす、必要なのはそういう意識とそれを形にする技術力だ。仕様を読むだけでなく、仕様の後ろにある思考をも読み取ろうとする、そういう使い方をしなければWCAGもJIS X 8341-3も本当に役立てることはできないし、それがプロの仕事というものだろう。
僕が「アクセシビリティ」という言葉を自分自身の社会活動の中心に据えてからもう15年になる。この15年の間にこの言葉の知名度は大いに上がったと感じる。特にWeb世界に関わる人の間には広く知られる言葉になったと思う。アックゼロヨンによってこの言葉がより広く知られるようになったという側面もあるだろう。しかし、言葉だけが知られるようになってもあまり意味はない。その言葉とともにあるコンセプト、本質、そんなものも同時に理解されないのであれば、それは全く広まったことにはならないのだ。アックゼロヨンも、ヒューリスティック・テストで見えてくる表面的な部分だけを見て本質を見ないという姿勢では、もうアクセシビリティの向上には寄与できないことを認識し、アクセシビリティに対する考え方を大きく修正すべき時がきているのではないだろうか。もしそれをしなければ、今のまま「アクセシビリティを前面に出しているのにアクセシビリティが低いサイトが最高栄誉に輝くアワード」であり続けるしかないだろう。しかしそれではアクセシビリティの本質が伝えられないだけでなく、間違った理解を広めることにすらなりかねないと思うのだ。
このように考えてくると、果たして僕自身が正しくアクセシビリティについて啓蒙してきたのだろうかという点についても考える必要がありそうだと感じる。バリア・フリーだってユニバーサル・デザインだって、初期にがんばった人たちのおかげでまず意識の高い人たちの間に言葉とコンセプトがひろまったのではないかと思う。しかし、その後言葉が一人歩きしてある種のバズワードとしてこれらの言葉が利用され、本質が理解されないまま使われたことも少なくないように思う。アクセシビリティという言葉もどうやらそのレベルに到達したようだ。本当はコンセプトと言葉をいっしょに普及させてきたつもりだけど、実際にはそうはなっていないことが今回のことを見ても分かる。今後どうやってコンセプトを言葉以上に根付かせるのか、今こそ僕たちがもっと真剣にいろいろな取り組みを進めていかなければならないのだと認識を新たにした。
追記
一部誤字を修正しました。 (2009/09/18 00:17)