震災雑感
2011年東北地方太平洋沖地震とか、東北関東大震災とか、東日本大震災とかいろいろな名前がある地震が起きた3月11日の14時46分、僕は自宅にいた。この1週間ほど前に右足首を痛め、ほとんど動けないような状態で1週間を過ごし、ようやく少し回復してきたような、そんな感じだった。本当は確定申告などなど、出掛けなければいけない用事がいくつかあったのだけれど、そんな状態だったので外出もままならず、結果として家にいたことが幸いしたような形になった。
今更書くようなことでもないけど、今回の地震は大きかった。僕は人生の3分の2以上を東京近郊で過ごしているので、地震には慣れっこになっている、と自分では思っていたけれど、今回のように揺れている最中に強い恐怖を感じたのは、これが初めてのことだった。僕が怖いと思うのだから、地震なんか基本的に存在しない国の出身の連れ合いは、日本に来て数年経って地震そのものには慣れたとは言っても、やはり怖くないわけがなく、パニックに陥っていた。僕自身も怖かったが、ともかく連れ合いを落ち着かせることで必死だった。
ついていたラジオからは、いつも聴いているその時間帯の生番組を担当する小島慶子さんが、自信も揺れに耐えながら、必死の様子で強い揺れが来た時の注意事項を読み上げる声が聞こえてきた。「まず身を護ってください。強い揺れは最長でも1分程度でおさまると言われています。」この声に随分落ち着かされた気がする。激しい揺れがいつまでも続くのではないかという恐怖を感じていたので、「そうか、長くても1分耐えればいいんだ!」と思えたことは大きかったように思う。
我が家には特に大きな被害はなかった。オーディオ機器が入っているラックが、キャスターはロックしてあったけど数十センチ動いたとか、机の上で散らかっていたCDなどなどが床の上に場所を変えたとか、そんな程度のことだった。ちなみに、床のうえに散らかったものについては、最初から床に置いておけば余震で落ちることもなくて良いだろうということで、そのまま放置することにした。 (単に足が痛くて片付けるのが面倒なだけ、という話もあるけれど。) その他の影響としては、ガスが止まったことと、マンションのエレベーターが翌日の夜頃まで止まったことくらいだろう。ガスについては、マイコンメーターについている、ガスを復活させるボタンの位置が分からずに結構苦労した。そのために、屋外にあるメーターの所と屋内を何度か往復して、結果として回復しつつあった足を痛めてしまった。
Twitterを見たりラジオを聴いたりしていると、電車が止まって帰宅の足を確保できずに困っている人や、意を決して徒歩帰宅を始めた人が多いことが分かってきた。あの日は大変寒い日で、ガスメーターの所に行って数分いただけでも、がたがたと震えだしてしまうような日だったので、徒歩帰宅はさぞ大変だったろうと思う。足が痛くて外出できず、家にいたことが幸いした形になったわけだが、そんな風に思えたのもそこまでだった。
前述のようにエレベーターは止まっていた。そして我が家は11階にある。足が痛いからとても階段では下りられない。しかし、度重なる余震があり、中には結構強いのもある。もし避難しなければならないような状況になったら、と想像して背筋が凍った。その時は、連れ合いを説得してとにかく僕を残して避難させるしかなかろう、そう腹をくくった。 (幸い今に到るまで、そんな状況にはなっていないことを本当にありがたく思う。)
震災後も足が痛かったので、ほとんど寝たきりのような状態が続いた。余震も多かったので、自然と地震に関する情報収集ばかりしていた。僕の主な情報源はラジオとTwitterだった。ふと思い立って時々テレビを見たり、CNNを見てみたりもしたが、どうもテレビは不必要にインパクトのある映像を流して、本当に必要な情報を伝えてくれないような気がして、ほとんどの場合、すぐに消してラジオに切り替えることになった。今回の震災に限って言えば、テレビは全体として何が起こっているのかを把握するためには良いが、被災者など、当事者が必要としている情報はあまり伝えてくれない、という印象を受けた。そういう当事者が必要とするような情報は、ラジオやTwitterのから多く得られたと思う。Twitterは速報性が高い形で情報が伝わってくる反面、情報の信頼性が分からないので、自分なりに確認する必要があるなと思った。一方ラジオは、Twitterほど速報性はないし情報量も少ないが、伝えられる情報の信頼性は高いという印象だった。
ラジオを主な情報源としていて良かったと感じた点がいくつかある。まず、ラジオの場合テレビとは違って、同じ情報の繰り返しやインパクトの強い映像の繰り返しで時間を埋めようとせず、要所要所で曲がかかることだ。比較的穏やかな曲が時々かかるだけで、随分と精神的に落ち着いた。また、このことの方がより重要だけど、ラジオは言葉で全てを伝えなければならない分、情報を丁寧に、詳しく伝えてくれるので、結果として内容が濃い、理解しやすい情報を得られることにつながっていると感じた。そして、アナログ放送であるラジオは、デジタル放送のテレビよりも早く緊急地震速報を受信することができるというメリットもある。 (専用端末とか携帯電話とかがどういう方式で信号を受け取っているのか知らないので、これらよりも早いのかどうかは分からない。)
地震当日は、何やら呆然としていたような感じで、夢をみているような、現実を現実として認識できないでいるような感覚だった。確かに恐怖を感じるほどの強い揺れを経験したし、余震も次から次へと発生していたのだけれど、ラジオから流れてくるいろいろな情報が持つ意味がどうもよく飲み込めないような感覚だった。自分自身は比較的安全な状態で自宅にいて、寒空の下帰宅できずに困っている人たちとは全然違う状況にあったこともその原因かもしれない。翌日になると脳が動き始めたというのか、ようやく現実を現実として認識し始めたような感じだった。そして津波による恐ろしい被害のことや、翌日になってようやく帰宅できた人の話などが、実際に起きた出来事として受け止められるようになって、改めて足がすくむ思いだった。
あくまでも僕がTwitterやラジオなんかから感じた空気の話で、実際に世間がそういう風だったかどうかはよく分からないけど、地震の直後から翌朝くらいまでの間は、大打撃を受けた交通機関や、それによる影響を受けた人がものすごい数いたことなんかから、東京も被災した、というような感覚が広がっていたような気がする。それが、津波の被害が明らかになるにつれて、東京は被災地なんかじゃないというよな空気とか、東京にいる我々は早く日常を取り戻さないといけないというような空気が流れるようになってきた。余震におびえながら自分たちの日常を取り戻そうという感覚は、10年前に9/11テロが起こった時にアメリカの地方都市に暮らしていた時の感覚とすごく似ているような気がした。今度は自分たちが住む町で何かが起こるかもしれないという不安を抱えながら、遠いNYの人々の事を思い、お互いに、そして自分自身にも日常を取り戻すように言い聞かせながら仕事や学校に出て行った、あの時の感覚とすごく似ているように感じた。
10年前のあの時の僕は、翌日から普通に仕事場だった盲学校に出掛けて行って、平静を装うのに苦労している生徒たちと一緒に、僕自身も平静を装うのに苦労していた。ただ、そうやって日常生活を取り戻そうとする努力のおかげで、精神状態を保てたのだという気がする。今回の場合、日常生活に戻ろうにも、相変わらず右足首の状態は悪く、ほぼ寝たきりのような状態が続いていたので、日常とはかけ離れた生活が続くことになった。正直なところ、このことが精神的には一番つらかった。そんなことを時々Twitterで愚痴っていたら、少なくない人から心強い言葉を多くいただいた。「必要なら言ってくれればすぐ行くから」というようなことを言ってくれる人もいて、涙が出るほど嬉しく、そして救われた気分だった。そういえば10年前にも友人からのメールや電話に助けられたっけ、とそんなことを思い出して、人間関係に恵まれていることに感謝した。
そんなわけで、地震の後も家でほぼ寝たきりの生活をしばらく続けていた。ラジオやテレビでは買い占めに関する話が多く聞かれたものの、幸い我が家には普段からそれなりに買い置きがあるので、さほど困ることはなかった。足の状態はなかなか良くならず、多少良くなった時に近所の医者に行き、その後しばらくしてから仕事関連の打ち合わせのために久々に出掛けた程度だ。しかし、その外出のせいでまた悪化するような始末だった。
足が不自由な状態で外出すると、節電モードの東京都いうのは実に不便な都市だった。その時は多くのエスカレーターやエレベーターが止まっていて、電車の乗り降りも一仕事だった。階段の手すりは必須で、これがないと怖くて階段の上り下り、特に下りが難しかった。また、手すりはあっても直線になっておらず、壁に沿って進行方向とは微妙に違う手すりなんてのもあって、これなんかは使うとむしろ危険なものだと感じた。
こんな風に、普段よりも不自由な体で、普段よりも低機能な町に出てみて考えたことがいくつかある。 前述の通り、町中のエスカレーターやエレベーターの多くが使えない状態になっていて、みんな階段を使わなければならない状態になっていた。また、僕が普段よく利用するバスの路線は一時的に運休していた。このように、社会に「余裕」がある普段は冗長化されている移動手段があり、それらを利用することを前提にした上で不自由なく行動できている人は意外に多いと思うのだが、一度「余裕」がなくなると、その冗長化がなくなって、健常者以外には何かしらの不自由が降りかかるというのが現状なのだということを痛感した。これでは高齢者の外出は大変だろうし、時間も金も持っているであろう彼らの消費活動にも少なからず影響するのでは、と的外れかもしれない心配までしてしまった。
それから、これは直接地震とは関係ないが、僕の場合、足が不自由になるというのは、自立した移動の自由を失うということなのだということを強く感じた。晴眼者であれば、たとえ足が不自由になっても松葉杖や車いすを使うことができる。しかし僕の場合、松葉杖で両手を使ってしまえば白杖を使えなくて安全確認ができないし、車いすの場合でもやはり自分で安全確認をしながら移動するのは至難の業と言えると思う。そう考えると、僕はもうこれ以上身体機能を失うわけにはいかない、ということなのだと初めてはっきりと認識した。健常者の場合、仮に身体機能の一つが不自由になっても、ある程度は他の身体機能や支援技術で補って、なんとか自立した生活を維持することができるのだと思う。しかし、僕の場合にはそうはならない、ということなのだ。つまり、健常者には「余裕」というか「貯金」というかそんなものがあるけれど、僕にはそれはない、ということなのだと思う。
そう考えると、社会も人間の体も、いかに「余裕」を持たせられるようにするのか、ということが大事なのだと思う。具体的なアイディアがあるわけではないけど、そういう「余裕」を増やすためにはどうすればいいのか、そんなことも考えていきたいと感じる。
実はこの文章を書き始めてから既に3週間以上経っている。何度となく読み返して、書き足したり消したりを繰り返して、それでもこんなにとりとめがないものになってしまったのだけれど、これ以上良くなることも期待できない気がしてきたので、とりあえずこの状態で掲載することにした。誰がこんな駄文を読んでくださるのかは分からないけど...。