当事者が声を上げるということ

投稿: 2020年1月19日

東京ボランティア・市民活動センターの月刊情報誌の10月号に掲載されたという、全国音訳ボランティアネットワークの代表、藤田晶子氏の文章が、全国音訳ボランティアネットワークのサイトで紹介されていた。

「音訳ボラの現状とこれから―視覚障害者等の情報保障のために」

僕は、小さな頃からだからかれこれ40年以上前から、いわゆる録音図書にお世話になってきた。 最近でこそ以前ほど利用する機会がないが、間違いなく重要な媒体だ。

子供の頃は、ただ単に文章を朗読したものを録音しただけの録音図書ばかりに接していたと思う。 そもそもその頃僕が接していた児童書なんかの場合は、たぶんそれで情報量として充分だったのだろうと思う。

録音図書は単に書籍中の文字情報を音声化しただけのもの、そんな認識をしていたと思う。 (今となっては恥ずかしい限りだ。)

その認識が変わったのは、高校生の時に留学したアメリカで点字や録音で提供されていた教科書に接してからだ。 特にアメリカ史の教科書として使っていた書籍では、表や写真、地図などについて結構詳しく点訳者や音訳者が説明してくれていたのだ。

そしてそんな留学から戻ってきたちょうどその頃、現在の音訳サービス・J (とうじは「音訳雑誌振興協会」) が製作していたAERAを音訳したものに出会った。

このテープ版のAERAには衝撃を受けた。 図表、写真についてちゃんと説明してくれているのに加えて、広告まで音訳してくれていた。

そして、AERAの原本と同じ価格での提供、ということもやられていて、これにもかなり驚かされた。 毎週90分のカセットテープ4本分のコンテンツを、あの丁寧さで作るのはどう考えても大変なことで、それをその価格で提供するのはさらに大変なことだっただろう。

入手のコスト、入手できる情報量、この両面で晴眼者と視覚障害者の格差がない状態を作ろうとしてくれていたわけで、それは当時の僕は実現できない理想、みたいに思っていたことだった。

今思うと、あのAERAとの出会いは、視覚障害者の情報アクセスについて実感を伴って考えるきっかけになっていて、僕がアクセシビリティーに取り組むうえでも重要な出会いだったと感じている。

そのAERAの事例がきっかけになったのかどうかは知らないけれど、僕がその後接した、比較的製作年が新しい録音図書に関しては、明らかに音訳の丁寧さが変わったような印象を持っている。 もしかすると僕がAERAがきっかけで、音訳について深く考えるようになって注意して聴くようになっただけなのかもしれないけど。

そんなわけで、音訳や点訳がいかに大変なことかはそれなりに想像できているつもりだ。 冒頭で紹介した記事には、そういう大変さについても書かれているので、ぜひ読んでいただきたい。

そして、この記事の中には、音訳の多くが無償のボランティアによって成り立っていること、そして音訳者が減少傾向にあることが紹介されている。

本当は、すべての情報の出し手が多様な受け手を意識した情報の出し方をしてくれれば、音訳や点訳はかなりの部分機械的に実現できるのだろうと思うのだけれど、現実的にはそんなことは期待できないわけで、クオリティーの高い音訳や点訳に対するニーズがなくなることはないだろう。

記事はこう結ばれている:

最後に、こういう時代ですから、行政にお願いしたいのは、無償のボランティアではなく、ぜひとも、予算化して有償ボランティアとしてもらいたいということです。情報保障は、行政のやるべき仕事です。 「読書バリアフリー法」に期待し、絵に描いた餅にならないよう注視していきたいものですそして、利用者を筆頭に私たちも、視覚障害者等の現状をどんどん発信していきたいと思います。

僕も、情報保障は社会全体で支えていくべきもので、それを主体となって実現するのは行政の役割だと思う。 善意から無償で提供される誰かの時間やスキルに甘えてはいけないものだろう。

その情報保障がいかに重要なものなのかということは、僕たち当事者 (言い換えれば受益者) が常に行政に、社会に訴え続けていくべきものだろう。 藤田氏も書かれているように、筆頭となって声を上げるべきは僕たち当事者で、僕たちを情報面で支えてくれている人たちにその部分で大きな負担をかけるべきではない。

最近よく思うことだけど、情報保障に限らず、僕たち、少なくとも僕はこれまで、充分に声を上げてこなかったのではないだろうか。 そこには、声を上げると「うるさい障害者」とか、「無茶な要求をする障害者」とか、そういうとらえられ方をすることに対する恐れというようなこともあったとは思うのだけど、待っていれば行政や社会やボランティアの皆さんがなんとかしてくれるのではないかという甘えや受け身の姿勢も少なからずあっただろう。

でも、僕たち当事者が声を上げて、自分たちのニーズを明確にすることは、僕たちやその次の世代の人たちのために社会を良くしていくうえでは必須だろう。 “Nothing about us, without us” を実現するためにも、当然必要なことだ。

そろそろいい歳になってきたので、人からどう見られるかにはあまりこだわらず (これまでもさほどこだわってはいないつもりだけど) 、当事者として積極的に声を上げていきたい、そう思いを新たにさせてくれる記事だった。